海外生活と親の死



父の命日



2015年の今日から、ぼくの中で新しく使う言葉ができた。それは「父の命日」とゆう言葉だ。

1年前の3月16日の夜明け前、ぼくのお父さんは肝不全で亡くなった。

死が近いことは分かってたけど、いわゆる「虫の知らせ」が全くなかったことにぼくは驚いた。

だってドラマや映画では必ずそうゆうのがあったから、自分の番が来てもそれがあるだろうと思ってたからだ。

だから家の電話が突然鳴った時はびっくりした。弟が「お父さん死んだで」と言って来た時、なんか、今までにない気持ちが一気に襲い掛かってきた。

泣きたい気持ちはなかった。ただ、どう思ったらいいのか分からなかっただけだった。




親の死に目に会えるかどうか


ぼくが住んでいるのはオーストラリアのゴールドコーストとゆうところだ。
日本まで飛行機で9時間の距離がある。

お父さんが住んでいた実家は香川県なので、日本に着いてももう一頑張りしないと家にたどり着けなくて、とても時間が掛かる。

海外在住だと「親の死に目に会えるかどうか」が話題に上がることが多いが、ぼくは死に目に会えなかった。

会えると思ってたけど会えなかった。

けど心残りは全くない。親孝行できたのか?と言われれば「そうでもないかも」と曖昧な答えになってしまうけど。


心残りはないかな


2010年にマリーナミラージュで結婚式を挙げた時には、初めてゴールドコーストに来てくれて、ぼくが選んだ人生の場所を見せることが出来た。

こっちに来てから親の大切さを実感し始めた時から、自分の誕生日には「育ててくれてありがとう。感謝しているよ」と伝えていた。

長女のリオを香川に連れて帰って会わせることも出来た。

亡くなる一か月前には休みを取って日本に帰国してから、1週間毎日病院にお見舞いに行って他愛のない話をした。

ぼくと弟とお父さんの3人で、昔大阪に住んでいたころのような、家族の空間でしょうもない話をして楽しむことも出来た。

まだ言葉を覚え始めのリオも電話で「じぃじぃ」って呼んでくれ、お父さんは喜んでくれたし、だからそんなに心残りはない。

主治医から呼ばれてぼくは急遽休みを取って、香川に帰った。




余命宣告から葬儀まで



余命宣告を受けるためにぼくと弟、そして近くに住んでいて、その病院で看護師をしている叔母の3人でその話を聞いた時、ぼくは全然悲しいとも辛いとも思わなかった。

だってお父さんはいくらぼくが注意しても酒を飲むのを止めなかったし、酒を飲むと病気が進行するのは本人も分かっていたはずだったから。

だから口には出さなかったけど「やっぱりこうなってしまうのか」ってゆうのが、その時の正直な気持ちだった。


弟からの電話を受けてから、葬儀に出席するまでは本当にタイミングに恵まれた。

電話一本でその日から休めた職場もそうだし、その3時間後の東京行きのジェットスターの航空券の手続きをしてくれた、オペレーターのお兄さん(オンラインではその日のエアチケットが買えなかったのだ)。

そしてお父さんが亡くなったその日は「友引」とゆう日で葬儀は出来ない日だった事。

それら全てが重なり、オーストラリアに住んでいるぼくの家族は無事に仮通夜、お通夜、告別式と参列することが出来た。まぁ参列とゆうかぼくは喪主だった。

全てを段取りしてくれたぼくのばぁちゃんと叔母は、もしぼくが間に合わなかったら他の人に差し替える予定だったらしい。

生まれて初めての喪主は訳も分からず、ただ周りから言われるがままに、挨拶回りに翻弄された。

間に合って本当に良かったと思った。そうでなければ未だに心残りがあったと思う。

実はぼく、身内の葬儀はこれが初めてだった。ぼくのじいちゃんとばあちゃんはまだ生きてるし、ひぃばぁちゃんの葬儀のときは帰らなかったから、お父さんの葬儀がぼくにとって初めての経験になってしまった。


現実を受け入れたあの時



未だにあの日、お父さんが斉場の布団で寝かされてる時、なんで動かないのかが分からなかったのが、ずーっと心に残ってる記憶だ。

生まれた時からその時まで、ぼくのお父さんは一度も死んだことがなかった(当たり前か)。

そしてこれから先も動かないとゆうのが、なんか分かっているけど不思議でしょうがなかった。

棺桶に入れられる時も「え?本人はここにおるねんから布団のままでいいんちゃうの?」って思った。

だって棺桶に入れられ祭壇に置かれるのってなんか変な感じがしたから。

全てが今までにない経験で、言われるがままに事が進んでいくから、自分の気持ちが全然ついて行かなかった。

何度も「なーお父さん?」って声を掛けて息を静めて返事を待っても、何も言ってくれないのが不思議で、多分その行為は火葬されるまでに30回はやったと思う。

だってぼくの人生の中でこうやって呼べばお父さんは返事をしてくれていたってゆうのがあったから。

ぼくのお父さんはとてもシャイで自分から自己表現をしたりするのが得意ではなかった人だったと思う。

今までに抱きしめられたり、肩を組んだりもそんなに無いかも。ってゆうかそうゆう記憶はほとんどないかな。

だからあの最後の握手はずーっと忘れないと思う。亡くなる一か月前に毎日病院に通い、そしてオーストラリアに戻る日。

あれが生前のお父さんと会った最後の日になったけど、いつもならお互い照れ隠しで「じゃーねーまた帰ってくるねー。電話するねー」とささっと別れるのに、お父さんはベッドの中から右手をさっと差し出してぼくの右手を握ってきた。

たぶん握手なんかしたのは初めてかもなーなんて思ったのを覚えてるし。驚いた。やたらごつごつしてて乾燥してたけど、やたら力強かった。

ぼくは人は死ぬ時って、それに向けて準備をすると思ってた。飛行機が離陸体制を取るみたいに。




だからあのお見舞いに行った1週間の時に、そうゆう話が出たりするのかななんて思ってたし、もしお父さんからそうゆう話を振られたら「ぼくはお父さんの息子で良かったと思ってるよ。黒川家の長男であることを誇りに思ってるよ。好きな場所で幸せな家庭を持ててるし幸せやから安心して。今までありがとうな」って言おうと思ってた。

けど当の本人はまだまだ生きるつもりで、パスポートの更新もしてたし、カレンダーも新しいのを購入していた。

ぼくが思ってた人間の最期とは違うなと思ったな。

今でもやっぱりお父さんが死んだことを思うと涙が出てくる。何でかは分からないけど。

夢にお父さんが出てきた時は「なんやお父さんやっぱまだ生きとったんや」って言ったこともある。

自分の親が亡くなるとゆうことが、これほど寂しい思いをするのかと思い知った。

火葬に入る直前に「これが最後になりますので」と伝えられたときほど泣いたことはなかった。

本当はもうとっくに死んでるのになぜか、あのお父さんの体がなくなってしまうのが辛かった。



その時に思ってたのは「参列してくれてた人たちにとっては亡くなった方だろうけど、俺にとってはこれがお父さんやねん。ただしゃべらんだけで、1か月前と何も変わらんねんで。」とまだ自分の中で割り切れない思いでいっぱいだった。

それが不思議とお骨になって出てきた姿を見たら、「あぁ本当に最期やったんやな。そうかこれが人が死ぬとゆうことか」と分かることが出来た。

オーストラリアに来るまでの22年間を大阪で一緒に過ごし、いつも仕事ばかりで黙々と生きている父の姿に「俺はもっと違う人生を」と思いながらオーストラリアで頑張ってきてた。

けどぼくも結局、家族の為に一生懸命働いて平凡な人生を歩んでいることに気づいたけど、自分も親になってからそれを誇りに思うようになってきてた。

亡くなるひと月前は一週間、毎日お見舞いに行って、そこで何気ない普通の時間が過ごせて良かったと思っている。



心のメッセージ


でも最後に言いたかった事はなかったのかな?って葬儀の後ずっと考えてたけど、49日の法要の日にやっと分かったことがあった。それは「命には限りがある」とゆうことを教えてくれた事。

今までの人生で最も悲しくて寂しい思いをしたけど、お父さんが残してくれたこの心のメッセージを忘れないようにしたいと思った。

この一年間は生きるとゆうことを、とても意識した気がする。
生きてる間にできることをやっていきたいと強く感じた。

だからこのブログを始めたとゆうこともある。何か生きてきた印を今すぐ残していきたいと、お父さんが死んでから強く思うようになった。

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